本山慈恩寺は冬の準備に入り境内の樹木が雪囲いされました。来週には本堂の雪囲いが予定されています。境内には1メートル以上の雪が積もりますので雪囲いは毎年の年中行事になっています。
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今回は、法相宗と本山慈恩寺の関わりについて紹介します。

本山慈恩寺が開創された奈良時代は 法相宗など唐(今の中国)から入ってきた六つの宗派が栄えており六つを総称して南都六宗と呼ばれていました。現在のように寺院ごとに特定の宗派を持つことはなく仏教の教えや教典を学問として学ぶ流派的な集団であったことから「衆」の字が充てられていたようですが、現在のような「宗」が充てられるようになったのは東大寺の大仏殿が完成したころ(西暦748年)といわれています。
仏教は朝廷や貴族と結びつき国家の庇護を受けて国の安泰や鎮護という考えが尊重され民衆とはかけ離れた存在であったようです。また、仏教の教えや教典を学び修行した僧侶には不思議な力が宿るとされ、呪術的な祈祷や法会などを行うだけで民衆を教化(教え導く)することや救済などの宗教的な活動は乏しかったようです。朝廷のお墨付きを得た寺は官寺、僧侶は官僧として力を持つようになっていました。
 聖武天皇は仏教の力を背景に国を治めるため勅願(勅命による祈願の意)により東大寺を総国分寺として各地に国分寺を建立しました。都から遠く離れた陸奥や出羽の国(今の東北地方)にも支配を強めるため祈願寺を創建していったものと思われます。その一つが本山慈恩寺でした。
本山慈恩寺には南都六宗の一つ興福寺や薬師寺を中心に最も栄えていた法相宗が入りました。本山慈恩寺の創建を聖武天皇に奏上した行基が法相宗の僧侶であったことと深く関わっています。