戊辰戦争によって明治維新へと日本を大きく変えていきました。寒河江も戊辰戦争の戦いの場になり、その戦火が慈恩寺まで及びました。

今回は、寒河江が戦場になった戊辰戦争の秋の戦いについて紹介します。

慶応四年(西暦1868年)9月19日、桑名藩の軍が寒河江に駐屯している庄内藩と合流するため白石方面から山形を通って夕刻寒河江に到着しました。
一方、新政府軍は米沢方面から山形を通って対岸の羽前長崎に到着し陣を敷きました。
翌9月20日未明、濃霧の中最上川を渡った新政府軍は寒河江市中に駐屯して朝食準備中の桑名藩と庄内軍を奇襲しました。
寒河江市中での戦闘を不利と見た庄内軍は長岡山に退却して陣を整え、地理的に不案内な桑名軍は寒河江駅付近を流れる沼川に押され市街戦が繰り広げられました。
圧倒的な兵力の新政府軍から追いつめられた桑名軍は寒河江の中心街を通って長岡山に退却して庄内軍とともに戦闘に及びますが持ちこたえられず午後には慈恩寺まで退却しました。
慈恩寺に架かる臥龍橋を挟んで銃撃戦になりましたが新政府軍の新式の強力な武器と兵力に押され、逃げ道を塞がれるとの情勢から田代・幸生を通って肘折へと夜行軍で退却しました。
このとき臥龍橋を落とそうとしましたが、頑丈なはね橋の構造なので落とすことができなかったといわれてます。
寒河江市中での戦いは壮絶を極めるものでした。新政府軍の遺骸は直ぐに片付けられましたが、賊軍の遺骸に手をかけると罰せられるという噂が広まり桑名軍の遺骸に手をかけるものは誰もなく、見かねた陽春院の住職大観和尚が桑名軍の遺骸を丁重に荼毘に伏して自寺の一隅に埋葬しました。現在でも寒河江の史跡になっています。
なお、桑名藩が庄内藩に合流した背景には、幕府を支えた東北地方の有力な藩が会津藩と庄内藩であったこと、会津藩主「松平保容」は桑名藩主「松平定敬」の実兄に当たることから両藩の結びつきも強かったものと考えられます。 
09|旧臥龍橋
明治時代のはね橋構造の臥龍橋
09|沼川
寒河江市中戦の沼川沿い
09|陽春院桑名藩
桑名藩の戦死者の碑