陽光うららかな日が続き、紅梅が咲きボケのつぼみも大きく膨らんでいます。
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今回は、慈恩寺の三か院と四十八坊について紹介します。

本山慈恩寺には境内の本堂を中心に三つの院(寺)とその配下の四十八坊からなる一山を組織する寺院でした。また、二つの宗派があり宝蔵院と華蔵院の両院は真言宗で学頭職を務め、最上院は天台宗で別当を務めておりました。
本山慈恩寺の本堂と院は一体となって法会や祭礼などの年中行事を行っており現在でも創建当時の法相宗で行われていますが、江戸時代から明治時代まで二つの宗派の間でもめ事や争いなどの混乱がありましたので三つの院が役割を分担したり年毎に輪番制で行うなどの定(さだめ)を設けておりました。例えば、本堂は天台真言両宗の院が勤番を置いて守ること。住職は両宗の僧侶を選ぶこと。両宗より三カ年ずつ六人の番住職を置くことなど。
本堂では年間58回ともいわれた法会や祭礼などの年中行事を行っていました。本堂と院の関係は、年中行事などを行う場が「本堂」で僧侶の住まいが「院」という関係にありました。また、院は僧侶を育成する場であり修行の場でもありました。
それぞれの院には「坊」が属しており慈恩寺一山の年中行事や修験道を支えており、慈恩寺一山の運営にも大きな役割を成しておりました。また、各坊にもご本尊が祀られており朝夕の行(ぎょう)が行われておりました。
江戸時代末期には四十八の坊がありましたが、明治政府の上知令公布後の困窮で帰農したり戦後の変革によって十七坊にまで減少しました。現在でも後継者がなく休坊する坊があり本堂での法会や祭礼などの年中行事は十四坊が支えています。
注)学頭は宗教の学問(教学)や 修行僧の育成など学事を統括する僧。別当は財政的なことも含めて寺院を運営する権限を持った僧。
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三か院の配置(上)と薬師堂に懸けられた四十八坊の額(下)
四十八坊額DSC_0726