慈恩寺周辺は、サクランボの花が満開です。また、モモ、ナシ、ラ・フランス、リンゴなどの花も咲き始め、遠くに見える標高の高い月山、蔵王、朝日連邦の山々には残雪が真っ白に映え、果物の産地・寒河江の郊外には桃源郷を思わせるような風景が広がっています。
(サクランボ)
(モモ)
(ナシ)
今回は、本山慈恩寺の開山に関係した二人の人物を紹介します。
その一人は聖武天皇に開山を奏上したと伝えられている高僧行基、もう一人は聖武天皇の勅命を受けて開山したと伝えられている婆羅門僧正です。
行基は、現在の大阪府堺市に生まれ15歳で出家し、唐に渡り玄奘の教えを受け法相宗を日本に伝えたといわれている道昭を師として法相宗を学び、朝廷が民衆への布教を禁じた時代に階級を問わず仏教の教えを説いたことから度々弾圧を受けたが、民衆から圧倒的な支持を得て逆境を排し宗徒とともに諸国に仏教を広めたと伝えられています。後年、聖武天皇の命により奈良東大寺の大仏造立の責任者に招聘されたとの記録があります。また、遣唐使の要請で来日した婆羅門僧正を九州の太宰府に赴き平安京大安寺に案内したと伝えられています。西暦749年に没したといわれています。
婆羅門僧正は、南インドのバラモン階級に生まれた人物で名前を菩提遷那(ぼだいせんな)といい、五台山の文殊菩薩の霊験を慕って中国に渡り、西暦736年遣唐使の要請で来日したと伝えられています。西暦751年に僧正になり、後に奈良東大寺の 大仏開眼供養の導師になったとの記録があります。西暦760年に没したといわれています。
行基は飛鳥時代の天地天皇七年(西暦668年)生まれと伝えられていますので、慈恩寺に来られたのは50歳を過ぎていたものと思われます。
本堂内陣の一角には、造られた年代や作者は不明ですが、婆羅門僧正の木造の小さな立像が納められています。
(サクランボ)
(モモ)
(ナシ)
今回は、本山慈恩寺の開山に関係した二人の人物を紹介します。
その一人は聖武天皇に開山を奏上したと伝えられている高僧行基、もう一人は聖武天皇の勅命を受けて開山したと伝えられている婆羅門僧正です。
行基は、現在の大阪府堺市に生まれ15歳で出家し、唐に渡り玄奘の教えを受け法相宗を日本に伝えたといわれている道昭を師として法相宗を学び、朝廷が民衆への布教を禁じた時代に階級を問わず仏教の教えを説いたことから度々弾圧を受けたが、民衆から圧倒的な支持を得て逆境を排し宗徒とともに諸国に仏教を広めたと伝えられています。後年、聖武天皇の命により奈良東大寺の大仏造立の責任者に招聘されたとの記録があります。また、遣唐使の要請で来日した婆羅門僧正を九州の太宰府に赴き平安京大安寺に案内したと伝えられています。西暦749年に没したといわれています。
婆羅門僧正は、南インドのバラモン階級に生まれた人物で名前を菩提遷那(ぼだいせんな)といい、五台山の文殊菩薩の霊験を慕って中国に渡り、西暦736年遣唐使の要請で来日したと伝えられています。西暦751年に僧正になり、後に奈良東大寺の 大仏開眼供養の導師になったとの記録があります。西暦760年に没したといわれています。
行基は飛鳥時代の天地天皇七年(西暦668年)生まれと伝えられていますので、慈恩寺に来られたのは50歳を過ぎていたものと思われます。
本堂内陣の一角には、造られた年代や作者は不明ですが、婆羅門僧正の木造の小さな立像が納められています。