ヨシミの「本山慈恩寺」ガイド

山形県寒河江市慈恩寺で「本山慈恩寺」のボランティアガイドをしています。ガイドの目から見たおよそ千三百年の歴史を持つ古刹「本山慈恩寺」の見どころや四季折々の移り変わりなどを紹介します。古刹・寺院めぐりや山形県の旅には「本山慈恩寺」にどうぞ。

2015年04月

慈恩寺周辺は、サクランボの花が満開です。また、モモ、ナシ、ラ・フランス、リンゴなどの花も咲き始め、遠くに見える標高の高い月山、蔵王、朝日連邦の山々には残雪が真っ白に映え、果物の産地・寒河江の郊外には桃源郷を思わせるような風景が広がっています。
桜桃の花IMG_5926桜桃の木IMG_5952(サクランボ)
桃の花IMG_5922桃の木IMG_5965(モモ)
梨の花IMG_5943梨の木IMG_5944(ナシ)

今回は、本山慈恩寺の開山に関係した二人の人物を紹介します。

その一人は聖武天皇に開山を奏上したと伝えられている高僧行基、もう一人は聖武天皇の勅命を受けて開山したと伝えられている婆羅門僧正です。
行基は、現在の大阪府堺市に生まれ15歳で出家し、唐に渡り玄奘の教えを受け法相宗を日本に伝えたといわれている道昭を師として法相宗を学び、朝廷が民衆への布教を禁じた時代に階級を問わず仏教の教えを説いたことから度々弾圧を受けたが、民衆から圧倒的な支持を得て逆境を排し宗徒とともに諸国に仏教を広めたと伝えられています。後年、聖武天皇の命により奈良東大寺の大仏造立の責任者に招聘されたとの記録があります。また、遣唐使の要請で来日した婆羅門僧正を九州の太宰府に赴き平安京大安寺に案内したと伝えられています。西暦749年に没したといわれています。
婆羅門僧正は、南インドのバラモン階級に生まれた人物で名前を菩提遷那(ぼだいせんな)といい、五台山の文殊菩薩の霊験を慕って中国に渡り、西暦736年遣唐使の要請で来日したと伝えられています。西暦751年に僧正になり、後に奈良東大寺の 大仏開眼供養の導師になったとの記録があります。西暦760年に没したといわれています。
行基は飛鳥時代の天地天皇七年(西暦668年)生まれと伝えられていますので、慈恩寺に来られたのは50歳を過ぎていたものと思われます。
本堂内陣の一角には、造られた年代や作者は不明ですが、婆羅門僧正の木造の小さな立像が納められています。 

本山慈恩寺の桜がようやく満開になりました。山形市内よりも4〜5日遅れての満開です。前回紹介した華蔵院の子安地蔵堂のしだれ桜もみごとに満開です。本山慈恩寺の桜は今週一杯が見ごろでしょう。
桜IMG_5907桜IMG_5915桜IMG_5913
今回は、高僧行基が慈恩寺の景勝を見て聖武天皇に開山を奏上したと伝えられていることについて考えてみようと思います。

本山慈恩寺の近郊に平塩というところがあります。そこの熊野神社には養老五年(西暦721年)に行基が開いたとされる縁起(神社の由来を記したもの)があり、本山慈恩寺の舞楽と同系統の舞楽が残され伝承されています。また、10kmほどのところにある長登寺(最上三十三観音十七番札所) にも行基との縁が伝えられており、宮城県の作並温泉にも行基が開湯したとの言い伝えがあることなどから、行基は仏教を広めながら勅願寺(天皇の発願により創建された国家鎮護等を祈願する寺)を建立する場所を探し求めていたのではないかと思われます。

では、高僧行基は慈恩寺の景観をどのように見たのでしょうか。
慈恩寺には、背後に霊峰葉山まで山々が連なり、葉山の霊験に関わりのある別当寺の存在が伺われ宗教的な雰囲気があったものと考えられています。
また、目前には寒河江川が流れ下流で最上川と合流し、
荘園が形成されるほどの肥沃な土地が広がっております。寒河江馬と称される良馬も産出され、朝廷に献上され競馬(くらべうま)にも供されたとの記録があります。その寒河江川からは砂金や砂鉄が採れており、豊かな土地柄であったと思われます。 
更に、慈恩寺の高台からは山形盆地を見渡すことができ、兵の動きや狼煙なども一目で判別できるなど戦略的な要衝の地としても優れていると考えられたのでしょう。戊辰戦争では寒河江が戦いの場になり慈恩寺周辺に盾が築かれたり、目前の六十里街道を
官軍が庄内に向かって進軍していきました。
西郷隆盛も隣接する出羽三山の宿場「白岩」と最上川舟運の集積地「谷地」に宿を取ったとの記録があります。
本山慈恩寺の境内から遊歩道の石段を上って約15分のところにある高台「山王台公園」から慈恩寺の景勝を見ることができ往時を偲ぶことができます。 
山王台公園IMG_5905
山王台公園IMG_5903
山王台公園IMG_5897





 

本山慈恩寺境内に隣接する華蔵院の子安地蔵堂の桜のつぼみも大分膨らみました。出羽の国寒河江にも桜の満開の季節がそこまで来ているようです。IMG_5875IMG_5873
今回は、本山慈恩寺の始まりについて紹介します。

本山慈恩寺は、今から約千三百年前の奈良時代中期まで歴史を遡ります。本山慈恩寺の縁起(寺社などの由来)によると、神亀元年 (西暦724年)諸国を巡り仏教を広め歩いた高僧行基が当地慈恩寺一帯の景観を見て都(朝廷)に戻り、時の天皇「聖武天皇」に開山を奏上し、奈良時代中期、天平十八年(西暦746年)聖武天皇が婆羅門僧正に命じて開いたと伝わる古い歴史を持つ一山寺院です。
平安・鎌倉時代には当地寒河江荘の地頭として支配していた藤原氏や大江氏などを通じて朝廷や鎌倉・室町幕府から、また戦国時代には山形城主の最上氏などの武家の庇護のもと、そして江戸時代には徳川幕府から2,812余石の御朱印を受けて東北随一の巨刹として栄えました。
本堂内陣では菊の御紋や葵の家紋を目にすることができます。
明治時代に入ると、勅願寺として檀家を持たない本山慈恩寺は上知令(御朱印地などの拝領地の没収)により経済的な基盤となる寺領を失い、困窮と風雪に耐えて今日の姿があります。

 

本山慈恩寺の裏山から下りて来たと思われるキジが境内の一隅で鳴いている光景に出会いました。キジは春の季語でもあり古くは万葉集にも詠まれているようです。春の訪れを感じさせる出来事でした。

今回は、「本山慈恩寺」までの道のりについて紹介します。

本山慈恩寺へは、JR羽前高松駅近くで国道112号線と立体交差する国道287号線を通り、寒河江川に架かる慈恩寺大橋を渡って間もなく脇道に入り醍醐(
だいご)小学校を通過し、慈恩寺活性化センター駐車場から3本のルートがあります。
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急な坂道「仁王坂」を歩いて上るルート、鳥居をくぐり曲がりくねった住宅地内の道路を乗用車で通るルート、大型バスも通れる迂回道路を通るルート。坂を上り本山慈恩寺の境内から 約60mのところ華蔵院の向側に大型バスも駐車できる広い駐車場があります。
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JRを利用する場合、JR羽前高松駅から慈恩寺大橋を渡り歩いて約20分。JRの本数が少ないので時間に余裕を持って下さい。またJP寒河江駅からはタクシーで15分ほどです。




4月に入り春らしい天気が続き、桜のつぼみも少しずつ膨らみ始めています。今年も「本山慈恩寺」のボランティアガイドが始まりました。これから土曜日・日曜日・祝日に「寒河江市さくらんぼの里ボランティアガイド」が常駐して本山の宗務の方々と一緒にご案内します。
今日、4月4日の土曜日は、個人で、家族で、グループで、近隣の寒河江、山形や天童など県内の方々のほかに、東京、埼玉、仙台など、遠くの方々も参拝に訪れました。

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今日の本山慈恩寺は、青空が広がり気温も上昇し、春の陽気に恵まれた観光日和の一日でした。
今夜は皆既月食です。国内で見られる皆既月食は、昨年Ⅰ0月以来の半年ぶりということです。
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