ヨシミの「本山慈恩寺」ガイド

山形県寒河江市慈恩寺で「本山慈恩寺」のボランティアガイドをしています。ガイドの目から見たおよそ千三百年の歴史を持つ古刹「本山慈恩寺」の見どころや四季折々の移り変わりなどを紹介します。古刹・寺院めぐりや山形県の旅には「本山慈恩寺」にどうぞ。

2016年02月

本山慈恩寺の境内に防犯カメラの設置工事が行われました。昨年、本堂などの堂舎に油のようなものがかけられる事件がありましたので防犯カメラの設置ということになりました。各カメラからは鮮明な映像がモニターされています。
24|防犯カメラ工事IMG_019224|防犯カメラ
今回は、明治維新にともなう本山慈恩寺の混乱について紹介します。

慶応四年(西暦1868年)1月に鳥羽伏見に端を発した戊辰戦争は東北・北海道まで拡大し寒河江でも壮絶な戦いがありました。新政府によって沈静化され様々な施策が発せられた明治の大変革は慈恩寺にも大きな不安と混乱が起こりました。
幕府から庇護を受けて栄えていた本山慈恩寺は天台真言両兼学の寺院として天台方と真言方の二つの宗派がありました。
慶応四年(西暦1868年)3月に新政府から発せられた神仏判然令いわゆる神仏分離令は本山慈恩寺の宗派の争いに発展しました。
 明治政府の宗教政策を担う東京神祇官から慈恩寺の堂舎と人別帳の提出を求められて出府した際、天台方から慈恩寺は神山であるとして真言方に断りもなく神職願いを出す動きに出しましたが、真言方は仏教寺院であるとの態度を崩さず神仏相争う事態になりました。更に天台方の中でも神職に同意しない坊も出るなど神職か僧分かで二つの宗派が入り乱れての争乱に発展しました。離檀の強要や脅しや仏躰を神号とするなどの動きが見られたとの記録があります。
慈恩寺一帯は修験道の道場でもありましたので明治五年(西暦1872年)に修験宗廃止令によって天台宗か真言宗のいずれかに入るよう命令されてようやく混乱が収束するに至りました。
このような混乱は慈恩寺に限らず全国の至る所で発生し廃仏毀釈によって仏像を傷つけられたり壊さられたり貴重な仏像が数多く消滅したといわれています。 

立春が過ぎて季節の変り目を感じさせるようになりましたが、本山慈恩寺の境内や三重塔は雪景色に映えて冬の美を感じさせています。
雪景色の境内IMG_0089
雪の三重塔IMG_0058

今回は、本山慈恩寺が徳川幕府から拝領した寺領の石高について紹介します。 

徳川幕府は慶長二年(西暦1649年)に全国の寺社の申請に基づいて朱印状を交付し領地所有を承認しました。 
本山慈恩寺ではおよそ二十年の宗派の抗争が災いして朱印状が交付されたのは寛文五年七月でした。 2,812石3斗余の領地の拝領は東北寺院の中でも最高の石高でした。聖武天皇や鳥羽上皇の祈願寺という性格の寺院だったことによると思われます。
年貢の石高はそれぞれの土地を検分して米の収穫量が決められましたので寒河江荘に点在する領地から2,812石3斗余の年貢が本山慈恩寺に収められておりました。
慈恩寺では米を測る独自の方法がありました。
慈恩寺枡といって1枡(ひとます)は5升入れで10回測ると5斗になり1俵と数えました。1石は10斗ですので2俵ということなります。2,812石3斗では5,624.6俵になりますが本山慈恩寺に収められたのは2,812.3俵になります。残り半分の2,812.3俵はお米を作ったお百姓さんが作得(さくとく)して受取っていました。
本山慈恩寺では収められた米のうち約800俵を法会や堂塔修造などの経費に当て約2000俵は一山の院や坊に分配されました。
参考までですが本山慈恩寺の収入を推測してみると当時の米1俵は
日銀金融研究所貨幣博物館の資料によると約2万5千円ですので2,812石3斗はおよそ1億4千万円ほどになるようです。なお、昨年の農家出荷価格は約1万円でした。


 

本山慈恩寺で大般若会が行われました。本堂に納められている経典を開けて転読し奉納する法要に多くの参拝者が訪れ、厄難消除、家内安全、商売繁盛などを祈願されました。

大般若会DSC_0578
大般若会DSC_0570大般若会DSC_0582
今回は、最上家改易後の混乱と徳川幕府からの御朱印状拝領について紹介します。

山形城主最上義光の没後の家督争い「最上騒動」により最上家が元和八年(西暦1622年)に改易されると本山慈恩寺には大混乱が起こりました。
 最大の援助者で寒河江荘の地頭になっていた最上家を失った本山慈恩寺は存続の不安が一気に拡大し宗派の争いに発展しました。
慈恩寺一山の存続と寺領安堵を願うために元和八年(西暦1622年)十月、宝蔵院、華蔵院、別当坊衆徒およを四十人が江戸の奉行所に出向きました。その一方で天台方の別当坊が密かに幕府の宗教政策に力があった天台宗の比叡山探題天海僧正に「慈恩寺一山を天台宗に改宗し比叡山南光坊の末寺になること」を約束に寺領安堵を願い出ていました。翌元和九年(西暦1623年)
直ちに裁定が発せられ天台宗に改宗して南光坊の末寺となる許可状を受けとりました。
この独断の顛末に一山の主流にあった真言方の宝蔵院と華蔵院が異を唱え抗争に発展しました。天台方別当坊配下への改宗や露骨な衆徒の取り込みなど宗派を二分する争いが約二十年も続いたといわれています。
寛政二年(西暦1662年)幕府の協力を得て「定(さだめ)」が取り決められ天台宗真言宗両兼学の祈願寺として一山の法会や祭事を行うようになりました。
慶安二年(西暦1649年)徳川幕府は全国の寺社に御朱印状を交付して所領を安堵しましたが、本山慈恩寺に御朱印状が下されたのは寛文五年(西暦1665年)でした。
徳川家から東北最大の石高2,812石3斗を拝領し明治維新まで寺領が安堵され本山慈恩寺の繁栄を見ました。

注)改易とは領地や屋敷などが没収されること。
注)安堵とは所領を保証し旧地をそのまま賜ること。
注)御朱印状とは所領安堵を認めた将軍(徳川家)の朱印を押印した文書。 

寒河江で初めての雪祭りが開催されました。最上川ふるさと公園で国の地域活性化の補助を受けた冬のイベントの開催です。
私たちボランティアガイドも会場のブースや寒河江駅のシャトルバスの乗降案内を行いました。山形県内では各地で雪祭りが開催されます。 

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今回は、山形城主最上義光と本山慈恩寺の関わりについて紹介します。

鎌倉時代からおよそ四百年続いた寒河江城主大江氏が天正十二年(西暦1584年)に最上義光に滅ぼされると寒河江荘は義光が支配し慈恩寺は義光の影響を強く受けるようになりました。 
義光は慶長五年(西暦1600年)関ヶ原の戦いを前に慈恩寺に「立願状」を出して戦勝祈願し戦勝の暁には慈恩寺隣村の三カ所を寄進すると書状に加えるなど、武運長久を願って寄進や堂塔を建立しています。
慶長十三年(西暦1608年)には二年の歳月をかけて三重塔を建立し安置する仏像も寄進しています。
また、義光の父義定が寒河江城に攻め入った最上永正の乱(西暦1504年)させました。義光は仮本堂になっていた本堂の再建にも取りかかりましたが、慶長十九年(西暦1614年)山形城で病死しました。再建は次男家親に引き継がれましたが元和三年(西暦1617年)急死、家督を継いだ孫義俊が翌元和四年(西暦1618年)に完成しました。
最上家は義光以後三代で改易されます。谷地城主の白鳥長久を山形城内で誘刹し、谷地・寒河江を攻め寒河江城主大江高基は貫見(現在の大江町)の山中で自刃し大江家は滅亡させた後、 関ヶ原の戦いの恩賞五十七万石を拝領し庄内地方まで領地を拡大しましたが、義光の死後に跡継ぎを巡ってお家騒動が起こり孫の義俊の代まで続き家中不届きとしてお家取つぶしとなり元和八年(西暦1622年)近江の国に改易になりました。
最上家の改易は慈恩寺にも大きな混乱をもたらすことになります。 

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