本山慈恩寺の境内に防犯カメラの設置工事が行われました。昨年、本堂などの堂舎に油のようなものがかけられる事件がありましたので防犯カメラの設置ということになりました。各カメラからは鮮明な映像がモニターされています。
今回は、明治維新にともなう本山慈恩寺の混乱について紹介します。
慶応四年(西暦1868年)1月に鳥羽伏見に端を発した戊辰戦争は東北・北海道まで拡大し寒河江でも壮絶な戦いがありました。新政府によって沈静化され様々な施策が発せられた明治の大変革は慈恩寺にも大きな不安と混乱が起こりました。
幕府から庇護を受けて栄えていた本山慈恩寺は天台真言両兼学の寺院として天台方と真言方の二つの宗派がありました。
慶応四年(西暦1868年)3月に新政府から発せられた神仏判然令いわゆる神仏分離令は本山慈恩寺の宗派の争いに発展しました。
明治政府の宗教政策を担う東京神祇官から慈恩寺の堂舎と人別帳の提出を求められて出府した際、天台方から慈恩寺は神山であるとして真言方に断りもなく神職願いを出す動きに出しましたが、真言方は仏教寺院であるとの態度を崩さず神仏相争う事態になりました。更に天台方の中でも神職に同意しない坊も出るなど神職か僧分かで二つの宗派が入り乱れての争乱に発展しました。離檀の強要や脅しや仏躰を神号とするなどの動きが見られたとの記録があります。
慈恩寺一帯は修験道の道場でもありましたので明治五年(西暦1872年)に修験宗廃止令によって天台宗か真言宗のいずれかに入るよう命令されてようやく混乱が収束するに至りました。
このような混乱は慈恩寺に限らず全国の至る所で発生し廃仏毀釈によって仏像を傷つけられたり壊さられたり貴重な仏像が数多く消滅したといわれています。
今回は、明治維新にともなう本山慈恩寺の混乱について紹介します。
慶応四年(西暦1868年)1月に鳥羽伏見に端を発した戊辰戦争は東北・北海道まで拡大し寒河江でも壮絶な戦いがありました。新政府によって沈静化され様々な施策が発せられた明治の大変革は慈恩寺にも大きな不安と混乱が起こりました。
幕府から庇護を受けて栄えていた本山慈恩寺は天台真言両兼学の寺院として天台方と真言方の二つの宗派がありました。
慶応四年(西暦1868年)3月に新政府から発せられた神仏判然令いわゆる神仏分離令は本山慈恩寺の宗派の争いに発展しました。
明治政府の宗教政策を担う東京神祇官から慈恩寺の堂舎と人別帳の提出を求められて出府した際、天台方から慈恩寺は神山であるとして真言方に断りもなく神職願いを出す動きに出しましたが、真言方は仏教寺院であるとの態度を崩さず神仏相争う事態になりました。更に天台方の中でも神職に同意しない坊も出るなど神職か僧分かで二つの宗派が入り乱れての争乱に発展しました。離檀の強要や脅しや仏躰を神号とするなどの動きが見られたとの記録があります。
慈恩寺一帯は修験道の道場でもありましたので明治五年(西暦1872年)に修験宗廃止令によって天台宗か真言宗のいずれかに入るよう命令されてようやく混乱が収束するに至りました。
このような混乱は慈恩寺に限らず全国の至る所で発生し廃仏毀釈によって仏像を傷つけられたり壊さられたり貴重な仏像が数多く消滅したといわれています。