ヨシミの「本山慈恩寺」ガイド

山形県寒河江市慈恩寺で「本山慈恩寺」のボランティアガイドをしています。ガイドの目から見たおよそ千三百年の歴史を持つ古刹「本山慈恩寺」の見どころや四季折々の移り変わりなどを紹介します。古刹・寺院めぐりや山形県の旅には「本山慈恩寺」にどうぞ。

2016年06月

本山慈恩寺の東に位置する三か院の一つ華蔵院の屋根塗装が行われています。足場を組んだ大掛かりな工事です。屋根の頂部の三つの菊の御紋も金色に輝くようになりました。
22|華蔵院屋根塗装IMG_036022|華蔵院屋根塗装IMG_0350
今回は、慈恩寺に修験道が入った時代の背景を紹介します。

高野山の真言密教の高僧弘俊が慈恩寺に真言宗と修験道と伝えた文治元年(西暦1185年)3月は源頼朝が平家一門を壇ノ浦で討滅した時期と一致します。
 源頼朝は平家討伐後の強固な幕府体制を確立するため全国に使者を発して民衆が信仰する寺社仏閣を配下に治める戦略だったのではないでしょうか。その一人が真言密教の高僧弘俊だったと考えられます。
それまでの平安時代の慈恩寺は寒河江の荘園主であった摂関家の藤原氏の庇護と鳥羽院の院宣や後白河法皇の影響下で堂塔や伽藍が修造され多くの仏像が奈良や京都から入るなど中央の仏教界の影響を受けて栄えた時代でした。
したがって平安末期の中央の情勢も伝わり平家と源氏の争いも把握されていたと考えられます。
また、平安時代後期には出羽三山の一つ羽黒山にも修験道が伝えられていました。
そのような時代にあって 後白河法皇の院宣と源頼朝の御下文(みくだしぶみ)を持った高野山の真言密教の高僧弘俊を受け入れる余地が十分醸成されていたものと考えられます。
藤原摂関家の庇護のもとに天台宗の影響下にあった慈恩寺に真言宗と修験道が 入ったことは時代の変化を感じさせる大きな変化だったと思われます。
その後の慈恩寺は源頼朝の近臣で奥州平泉の藤原氏征伐で功績を上げた大江広元が寒河江の荘園主になり約400年間大江家の庇護を受けて繁栄しました。

田植えが終わり苗がすくすく育っている田んぼにオシドリがやってきました。田んぼにオシドリは珍しいことです。
DSC_0964オシドリ
今回は、本山慈恩寺と修験道の関わりについて紹介します。

慈恩寺に修験道が入ったのは平家が壇ノ浦で源氏に滅ばされた年の文治元年(西暦1185年)の3月、高野山の真言密教の高僧弘俊(こうしゅん)が後白河法皇の院宣(いんせん)と源頼朝の御下文(みくだしぶみ)を携えて修験道を伝えたことに始まります。
その翌年の文治二年(西暦1186年)には後白河法皇の院宣により熊野神社の本社と末社が建てられました。
熊野権現を祀る熊野神社は紀州熊野三社を基にする修験道の本拠地ですから慈恩寺が当地方の修験道の拠点になったといえます。
慈恩寺の修験道は背後に連なる葉山までを一つの峯として山伏修行が行われ慈恩寺修験の隆盛に伴い葉山は月山・羽黒山と並んで出羽三山の一つに数えられるようになりました。
しかし、室町時代末期の天正年間(西暦1573〜1591年)に葉山の行者の間に騒動が起こり慈恩寺の山伏は葉山と袂を分かち別の峯に修験の場を変えたために葉山の修験が衰退し江戸時代の初めには出羽三山の一角を明け渡すようになりました。
他山には属さない独自の修験道を確立した慈恩寺修験の間でも争いがあり一時中断しましたがしましたが 、明治五年(西暦1872年)に修験宗廃止令が出されるまで続きました。
慈恩寺修験は「秘すべし」とされていましたので詳しい事は分からなくなっていましたが、山伏であった坊から日記に類した記録や板札(峯中を行った証で社殿に納めた書き付けの板)などが発見され慈恩寺修験が明らかになり昭和35年に柴燈護摩供を復活させました。
毎年の9月第2日曜日に柴燈護摩供が行われています。

  三重塔の近くにある「現在の熊野神社」
IMG_0686熊野神社

 

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