本山慈恩寺の東に位置する三か院の一つ華蔵院の屋根塗装が行われています。足場を組んだ大掛かりな工事です。屋根の頂部の三つの菊の御紋も金色に輝くようになりました。
今回は、慈恩寺に修験道が入った時代の背景を紹介します。
高野山の真言密教の高僧弘俊が慈恩寺に真言宗と修験道と伝えた文治元年(西暦1185年)3月は源頼朝が平家一門を壇ノ浦で討滅した時期と一致します。
源頼朝は平家討伐後の強固な幕府体制を確立するため全国に使者を発して民衆が信仰する寺社仏閣を配下に治める戦略だったのではないでしょうか。その一人が真言密教の高僧弘俊だったと考えられます。
それまでの平安時代の慈恩寺は寒河江の荘園主であった摂関家の藤原氏の庇護と鳥羽院の院宣や後白河法皇の影響下で堂塔や伽藍が修造され多くの仏像が奈良や京都から入るなど中央の仏教界の影響を受けて栄えた時代でした。
したがって平安末期の中央の情勢も伝わり平家と源氏の争いも把握されていたと考えられます。
また、平安時代後期には出羽三山の一つ羽黒山にも修験道が伝えられていました。
そのような時代にあって 後白河法皇の院宣と源頼朝の御下文(みくだしぶみ)を持った高野山の真言密教の高僧弘俊を受け入れる余地が十分醸成されていたものと考えられます。
藤原摂関家の庇護のもとに天台宗の影響下にあった慈恩寺に真言宗と修験道が 入ったことは時代の変化を感じさせる大きな変化だったと思われます。
その後の慈恩寺は源頼朝の近臣で奥州平泉の藤原氏征伐で功績を上げた大江広元が寒河江の荘園主になり約400年間大江家の庇護を受けて繁栄しました。
今回は、慈恩寺に修験道が入った時代の背景を紹介します。
高野山の真言密教の高僧弘俊が慈恩寺に真言宗と修験道と伝えた文治元年(西暦1185年)3月は源頼朝が平家一門を壇ノ浦で討滅した時期と一致します。
源頼朝は平家討伐後の強固な幕府体制を確立するため全国に使者を発して民衆が信仰する寺社仏閣を配下に治める戦略だったのではないでしょうか。その一人が真言密教の高僧弘俊だったと考えられます。
それまでの平安時代の慈恩寺は寒河江の荘園主であった摂関家の藤原氏の庇護と鳥羽院の院宣や後白河法皇の影響下で堂塔や伽藍が修造され多くの仏像が奈良や京都から入るなど中央の仏教界の影響を受けて栄えた時代でした。
したがって平安末期の中央の情勢も伝わり平家と源氏の争いも把握されていたと考えられます。
また、平安時代後期には出羽三山の一つ羽黒山にも修験道が伝えられていました。
そのような時代にあって 後白河法皇の院宣と源頼朝の御下文(みくだしぶみ)を持った高野山の真言密教の高僧弘俊を受け入れる余地が十分醸成されていたものと考えられます。
藤原摂関家の庇護のもとに天台宗の影響下にあった慈恩寺に真言宗と修験道が 入ったことは時代の変化を感じさせる大きな変化だったと思われます。
その後の慈恩寺は源頼朝の近臣で奥州平泉の藤原氏征伐で功績を上げた大江広元が寒河江の荘園主になり約400年間大江家の庇護を受けて繁栄しました。