ヨシミの「本山慈恩寺」ガイド

山形県寒河江市慈恩寺で「本山慈恩寺」のボランティアガイドをしています。ガイドの目から見たおよそ千三百年の歴史を持つ古刹「本山慈恩寺」の見どころや四季折々の移り変わりなどを紹介します。古刹・寺院めぐりや山形県の旅には「本山慈恩寺」にどうぞ。

2016年10月

風雨雪で傷んだ本堂の屋根の修理が行われています。茅葺き屋根を葺ける職人は非常に少なくなっていますが、専属の老練な屋根葺き師の中に若い女性の葺き師も加わり慈恩寺葺きといわれる屋根の修理を行っています。
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今回は、山伏修行の証として奉納された板札について紹介します。

近年の調査で万治二年(西暦1659年)から明治五年(西暦1872年)までの板札40枚が山伏であった坊の住まいに残されていました。 
大きいものでは長さ2m以上で幅は30cm以上です。 
板札には、梵字、峯中の年号、祈願文、先達の名前や役割分担、峯中に参加した山伏名、山伏の所在などが記されています。
写真の板札には祈願文に「奉修當峯柴燈護摩供天下泰平諸人快楽祈所」と書かれています。
 「奉修當峯柴燈護摩供」とは、今回の峯中の柴燈護摩供養で以下のことが願い事ですという前書きに当たります。
「天下泰平諸人快楽」 とは、世の中が穏やかで争い事が起こらず人々が幸せであって欲しいということです。「快楽」は「けらく」といい俗にいう快楽とは意味が異なります。

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     図録「慈恩寺修験資料」より

また、「奉修當峯柴燈護摩供聖朝安隠大樹殿下御武運長久国家泰平五穀成就如意満足祈所」の「 聖朝」は朝廷や天皇のこと、「大樹殿下御武運長久」の大樹殿下は徳川家のことで武人として命運が長く続くこと、「国家泰平五穀成就」は世の中が平穏で五穀(米、麦、豆、粟、きびなど)の食べ物が豊かに稔ること、「如意満足」は人々の思いが満たされるようにという願いです。
祈願文は様々でそれぞれの時代を反映しているおり共通していることは世の中の平安、権力者の安泰、食べ物がよく採れること、民衆の幸せを願って護摩供養が行われたようです。

26|板札CCF20170220_2
    図録「慈恩寺修験資料」より

修験者が山中で山篭もりして修行を終えると打切札といわれる板札を御堂(慈恩寺では白山堂)に奉納しました。
明治五年の修験宗廃止令後、白山堂に納められていた板札は慈恩寺三か院配下の坊ごとに分けて保存していたようです。欠けている年代の板札は家屋の修理や建築の用材として使われたもののあったようです。
残されている貴重な板札は本堂に保管されており参拝の折に見ることができます。

 

本山慈恩寺の本堂周辺には修験道に関係する堂跡があります。
今回は、その跡地を紹介します。

「不動堂」 
本堂の隣にあり不動明王が祀られています、
入山に当たって山伏が信仰する大日如来の化身といわれる不動明王に参拝します。
山伏の修行を行う執行礼や安全祈願が行われていました。
12|不動明王堂IMG_0720
「熊野神社本殿」
慈恩寺に修験道が伝えられた翌年の文治二年(西暦1186年)建てられました。
現在の社殿は境内を少し下ったところにあり江戸時代前期に建てられました。
12|熊野神社IMG_0684 のコピー
「役行者堂跡」
修験道の開創役行者を祀る御堂が建てられていたようです。
堂の前では神酒を供えて謡などが行われていました。
12|役行者堂跡IMG_0753
「白山堂と柴燈護摩炉跡」
御堂前には護摩炉が作られ柴燈護摩供が行われていました。
今も毎年9月の第2日曜日に柴燈護摩供が行われています。
12|白山堂跡IMG_0761
12|柴燈護摩炉跡IMG_0762
「大黒堂跡」
大黒天を祀っていたようです。
大黒天は密教の真言宗や天台宗で信仰され神道でも七福神の一柱であることから神仏習合の修験道でも祀られていたようです。
12|大黒堂跡IMG_0764
「新山堂跡」
一の宿と称する山伏の篭り堂になっていました。
土台石の配置から配置から推測すると大きな館であったようです。
峯中の最初の訳6日間滞在し、床締め(雑念を払い大日如来の世界に入る瞑想)や読経など様々な儀式や修行が行われていました。
山伏は位階によって厳格に座する位置が定められていました。
12|新山堂跡IMG_0767
「山王権現堂跡」
山王權現が祀られていたようです。
山王權現は神道と天台宗が融合した神仏習合の神といわれ修験道で信仰されていたようです。
今は、山王台公園になっており村山盆地が一望できます。
12|山王堂跡IMG_0772
12|山王台IMG_0771


 

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