風雨雪で傷んだ本堂の屋根の修理が行われています。茅葺き屋根を葺ける職人は非常に少なくなっていますが、専属の老練な屋根葺き師の中に若い女性の葺き師も加わり慈恩寺葺きといわれる屋根の修理を行っています。
今回は、山伏修行の証として奉納された板札について紹介します。
近年の調査で万治二年(西暦1659年)から明治五年(西暦1872年)までの板札40枚が山伏であった坊の住まいに残されていました。
大きいものでは長さ2m以上で幅は30cm以上です。
板札には、梵字、峯中の年号、祈願文、先達の名前や役割分担、峯中に参加した山伏名、山伏の所在などが記されています。
写真の板札には祈願文に「奉修當峯柴燈護摩供天下泰平諸人快楽祈所」と書かれています。
「奉修當峯柴燈護摩供」とは、今回の峯中の柴燈護摩供養で以下のことが願い事ですという前書きに当たります。
「天下泰平諸人快楽」 とは、世の中が穏やかで争い事が起こらず人々が幸せであって欲しいということです。「快楽」は「けらく」といい俗にいう快楽とは意味が異なります。
図録「慈恩寺修験資料」より
また、「奉修當峯柴燈護摩供聖朝安隠大樹殿下御武運長久国家泰平五穀成就如意満足祈所」の「 聖朝」は朝廷や天皇のこと、「大樹殿下御武運長久」の大樹殿下は徳川家のことで武人として命運が長く続くこと、「国家泰平五穀成就」は世の中が平穏で五穀(米、麦、豆、粟、きびなど)の食べ物が豊かに稔ること、「如意満足」は人々の思いが満たされるようにという願いです。
祈願文は様々でそれぞれの時代を反映しているおり共通していることは世の中の平安、権力者の安泰、食べ物がよく採れること、民衆の幸せを願って護摩供養が行われたようです。
図録「慈恩寺修験資料」より
修験者が山中で山篭もりして修行を終えると打切札といわれる板札を御堂(慈恩寺では白山堂)に奉納しました。
明治五年の修験宗廃止令後、白山堂に納められていた板札は慈恩寺三か院配下の坊ごとに分けて保存していたようです。欠けている年代の板札は家屋の修理や建築の用材として使われたもののあったようです。
残されている貴重な板札は本堂に保管されており参拝の折に見ることができます。
今回は、山伏修行の証として奉納された板札について紹介します。
近年の調査で万治二年(西暦1659年)から明治五年(西暦1872年)までの板札40枚が山伏であった坊の住まいに残されていました。
大きいものでは長さ2m以上で幅は30cm以上です。
板札には、梵字、峯中の年号、祈願文、先達の名前や役割分担、峯中に参加した山伏名、山伏の所在などが記されています。
写真の板札には祈願文に「奉修當峯柴燈護摩供天下泰平諸人快楽祈所」と書かれています。
「奉修當峯柴燈護摩供」とは、今回の峯中の柴燈護摩供養で以下のことが願い事ですという前書きに当たります。
「天下泰平諸人快楽」 とは、世の中が穏やかで争い事が起こらず人々が幸せであって欲しいということです。「快楽」は「けらく」といい俗にいう快楽とは意味が異なります。
図録「慈恩寺修験資料」より
また、「奉修當峯柴燈護摩供聖朝安隠大樹殿下御武運長久国家泰平五穀成就如意満足祈所」の「 聖朝」は朝廷や天皇のこと、「大樹殿下御武運長久」の大樹殿下は徳川家のことで武人として命運が長く続くこと、「国家泰平五穀成就」は世の中が平穏で五穀(米、麦、豆、粟、きびなど)の食べ物が豊かに稔ること、「如意満足」は人々の思いが満たされるようにという願いです。
祈願文は様々でそれぞれの時代を反映しているおり共通していることは世の中の平安、権力者の安泰、食べ物がよく採れること、民衆の幸せを願って護摩供養が行われたようです。
図録「慈恩寺修験資料」より
修験者が山中で山篭もりして修行を終えると打切札といわれる板札を御堂(慈恩寺では白山堂)に奉納しました。
明治五年の修験宗廃止令後、白山堂に納められていた板札は慈恩寺三か院配下の坊ごとに分けて保存していたようです。欠けている年代の板札は家屋の修理や建築の用材として使われたもののあったようです。
残されている貴重な板札は本堂に保管されており参拝の折に見ることができます。