先日、オーストラリアの青年と南アフリカの姉妹が訪れました。日本の仏教精神に関心があり仏像を見ながら説明を聞いていました。
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今回は、慈恩寺舞楽と深い関係にある林家について紹介します。

本山慈恩寺で奉奏される舞楽は八番(八演目)です。そのうち二番は慈恩寺一山の人が演じますが、六番は林家が演じています。
林家は貞観二年(西暦860年)、山寺立石寺を開創した慈覚大師に伴って山寺に来た大阪四天王寺楽人「林越前政照」につながり、現在は慈恩寺の北東に隣接する河北町谷地の八幡宮の宮司を務めています。
大阪四天王寺は、大陸から伝わった仏教や雅楽・舞楽などの伎芸を保護育成した聖徳太子が創建した寺で、宮中方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)と並ぶ三つの楽所(がくそ・朝廷が指定した雅楽・舞楽の教習修練の場)の一つになっている由緒ある舞楽伝承の寺院になっています。
山寺で舞楽を司っていた林家は、永正十八年(西暦1521年)に起こった戦乱で山寺一山が焼き討ちされ衰亡した山寺を離れて以前から奉仕し深い関係のあった慈恩寺に移り寺領を拝領して寒河江川対岸の八鍬村に居住しました。
江戸時代には慈恩寺三か院の一つ最上院から20石9斗余の御朱印地を拝領し厚遇されていたようです。
林家が八鍬村から現在の河北町谷地に移ったのは安永十年から寛政十二年(西暦1781〜1800年)頃と考えられます。 この時期は慈恩寺と八鍬村との間で寺領地と御料地の宗門人別長などをめぐる争いが何度か発生し訴訟に持ち込まれていました。
谷地の慈恩寺御朱印地への転居を余儀なくされた林家は、八幡宮別当の円福寺に社人(神社に仕える人)として迎えられ谷地八幡宮に仕えるようになったようです。
 林家の舞楽は「秘すべし」や「門外不出」とされ一子相伝の秘法として継承され大阪四天王寺舞楽の流れを厳格に受け継いで来たようです。
遠く都から離れた出羽山形において伝承されて来た舞楽は、平安時代中期以降の楽制の改革(いわゆる日本化といわれる改革)以前の旧来の奈良・平安時代の貴族文化の様相を残しておりシルクロードを経由して伝わった大陸の影響が感じられるといわれています。
林家が伝承している舞楽(慈恩寺舞楽を含む)は昭和五十六年(西暦1981年)に国指定重要無形民俗文化財に指定されました。
谷地舞楽
谷地八幡宮の舞楽(林家のパンフレットから)